御影石のダイアモンドと言われている世界一高価な花崗岩“庵治石(あじいし)”の産地である牟礼町は、この庵治石が採れる山の麓には、隣町の庵治町とあわせ約250軒の石材店が軒を連ね、今でも“日本一の石材産地・石の町”として有名です。
また、源平屋島合戦(1185年)の史跡が数多く残され、2005年に放映された「大河ドラマ・義経」の影響で脚光を浴びました。
当時の牟礼町長の呼びかけによって、牟礼町をもっと元気な町にするために発足した「むれ源平まちづくり協議会」が、「原風景」をテーマに牟礼町の良さについて何度も議論した結果、「源平史跡」と「石材産業」の2つの良さをつなぐアイデアから生まれたのが、この「石あかりロード」です。
ことでん八栗駅から駒立岩まで続く石あかりロードの周りには、「総門」、「祈り岩」、「射落畠」などの源平に関する史跡がたくさんあります。(実は源平の史跡の多くは江戸時代初期に高松藩初代藩主の松平頼重公によって、「観光」目的で整備されたものと言われています。ちなみに、屋島周辺には、同じく観光目的であとから整備されたり、後から作られたと思われる伝説がいくつもあります。例えば、屋島山上の「血の池」や「瓦投げ」などの伝説も後から作られたのではないかという説があります。)
「総門」
神櫛王墓の北約200メートル、旧庵治街道の傍らにある。寿永2年(西暦1183年)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。総門は、その遺跡である。源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、故に里人はここを源氏の総門という。高松藩主松平頼重(英公)は衡門(かぶきもん=冠木門)を建ててその古跡を表した。
現在の総門の南東に木戸(城戸)と呼ばれる集落がある。そこで、ここに総門があったのではないかとする説がある。英公は世人に広く知らせるため、今の街道筋に建てたのではないかといわれている。
「祈り岩」
県道牟礼・庵治線を八栗から北進して、宮北の旧県道と合する南側角にある。箕輪弥六の書いた「いの里岩」という石標が、下方の一部を埋めて建てられている。この岩は源平合戦の時、那須与一宗高が扇の的を射ようとして、この岩に向かい、「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明日光権現、宇都宮那須湯泉大明神、願わくはあの扇の真中射させ給えかし」と、神明の加護を祈ったといわれている。
「射落畠」
総門の南側の細道を東に数10歩行き、県道八栗・庵治線に突きあたる手前右側にある。佐藤継信が義経の身代わりとなって射落とされたと伝わる場所である。昭和6年(1931年)5月、継信公30世の孫佐藤信古が墓所大修築とともに、この地にも柵をめぐらし、池泉をつくり、射落畠碑と遠祖君乗馬薄墨碑を建立してこれを表した。
また、石あかりsidetripLIVE&cafeの会場で、源義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信の菩提寺である「須崎寺」では、期間中の
土曜日19時から「石あかりsidetripLIVE 」 が開催されます!
詳しくは、「むれ源平 石あかりロード」ホームページを確認してください!